[第24回]
Linux教について
突然ですが、私は元々文化系の人間で、コンピュータやネットワークなんて学生時代興味あるわけでなく、二葉亭四迷における言文一致の変遷なんていうテーマで「浮雲」に出てくる「参る」という言葉数を数えたりしていました。「浮雲」っていう小説は、冒頭の文語体が次第に言文一致体に変わっていくのですが、それは例えば「参る」という文語調の言葉の出てくる頻度から分かります。初め多かった「参る」が次第に使われなくなるのです。そんなことを調べながら、言文一致の文体を当然とする現代文明は、多くの所を明治の小説家に頼っているという考えを強くしました。
大学の卒論は、「吉行淳之介論」で、生と性の原風景とか、第三の新人と吉行とか、それはそれは熱心に文学書を読み漁っていました。ほとんど誰も名前さえ知らないだろうけど、服部達や奥野健男なんかも愛読しました。服部の「我らにとって美は存在するか」は明晰で簡潔な文体が魅力で、毎日必ず彼の文章を読んでから卒論を書き始めたものです。
更に、彼らの対極にいた江藤淳。特に彼の「成熟と喪失」は何とも言えない名文で、何度も読み返したものです。吉行を批判する「休暇の文学」に必ずしも共感したわけではありませんが、彼の文章にはすっかり魅了されてしまい、評論でこんな色気が出せるなんてと、感心したものです。
そういうわけで私が最も興味を持ったのは、「文体」です。ここで突然コンピュータの話になるのですが、コンピュータのプログラムや各種設定ファイルは極めて文体的であると思いませんか? プログラム言語は「言語」ですから、これには当然書式や構文があります。そして、書式や構文は一つの妥協も許されず厳格なまでに適用されます。これほど文体的なものは他にはありません。美しいプログラムという言葉があります。色気のあるプログラムってのはどうか知りませんが、プログラミングは、間違いがないだけでなく、簡潔で、しかも美しいのがいいというのです。これはもうすっかり文章論です。
文章の基本は三つあって、それは、
です。これはプログラミングの基本でもあります。ここにおいて、一見相反する文章論とコンピュータが見事に止揚するのです。Linuxのシステム構築は、プログラミングではありませんが、構造的に考えて行くところが文章を書くのに極めて似ています。
ところで、私がLinuxを三年間続けている理由の一つに、こういう文章を書き続けることが出来るというのがあります。今回で24回目になりますが、この調子で行けば100回の連載も夢でなくなってきました。この調子とは、勿論今回のような駄文も含みます。
数年前のLinux人気は現在は落ち着きましたね。本屋さんの書棚にLinuxという文字を目にするのは少なくなってきました。それはそれで仕方ないことでしょう。もともとLinuxはマニアックでマイナーなOSだからです。しかし、Linux教という言葉があるほどに、Linux愛好者はほとんど宗教的な信念を持って、これを使い続け、これを広めようと努めます。理科系の人間はプログラミングやパッチの作成に、文化系の人間はドキュメントの翻訳やFAQの整理に、そして不幸にしてその両方の才能に恵まれない者はこういう駄文に布教の情熱を傾けます。その理由はいくつか考えられるのでしょうが、最も根底にある心情は、反Microsoft です。
OSを一企業が独占するのは危険です。しかも強力な著作権に守られ、全ては闇の中です。Microsoftは全てを握っています。彼らがダメと言えば、OSのインストールさえ出来なくなります。皮肉を込めていうなら、現代文明の多くの部分を言文一致の文体が支えている如く、MicrosoftのWindowsは現代の高度に抽象化された情報社会を支えています。これを危険と感じないのはあまりに鈍感と非難されても仕方のないことです。あなただって、Windows XP のライセンス認証を快く思っていないでしょう。
最近初めてパソコンを使い始めた知人から、画像を貼り付けるには? とか、インターネットの設定はどうするの? とかいろいろ質問を受けます。そういう質問にはていねいに答えていますが、操作方法だけでなく、原理的なことも補説しようとしています。OSが変わっても生きるスキルがあるはずです。彼らがいつの日か反Microsofに目覚めたときに生きるスキルがあるはずです。
2002.2.11
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