中井英夫のことども(98.10.15)


 

創元ライブラリ中井英夫全集(全十巻+別巻1)が現在刊行中である。

しかしそれにしても不遇な作家だと思う。姫路の大型書店で発売日に

入荷わずか3冊。中型書店には多分入っていないであろう。姫路全体

の本屋に10数冊しか入っていないのではないか?1ヶ月もすると棚か

ら姿を消す。発売日にゲットしておかないと姫路で入手するのは絶望

的な状況なのだ。マイナーな作風。デビュー作「虚無への供物」の完

成度があまりにも高かったため、その後の作家生活に期待が常につき

まとった不運な作家。結局デビュー作を越える長編は遂に完成できな

かった。今まで私が読んだ中井作品は「虚無への供物」のみ。    

今回の文庫判全集で初めてその他の短編やエッセイに触れることにな

る。中井英夫は探偵作家とは分類されていないが、根っ子は正当な探

偵小説作家の継承者だと思う。創造の原点には常に”新青年”の作家

達、小栗虫太郎や夢野久作などの呪縛のごときものがつきまとってい

る。その優れた先達への憧憬が作家活動の原動力になっていたことは

間違いがない。極度の憧憬が”虚無への供物”という一大伽藍を築い

てしまったのだ。それは直系の弟子である竹本健治が虚無への供物の

挑戦ともいうべき”匣の中の失楽”を、弱冠21歳で書き切ったことに

あい通じるものがある。そして新青年作家への批評のアプローチの手

法は、もう一人の継承者、笠井潔に受け継がれている。笠井は新青年

作家を論理的に再確認しようとしているが、中井にそのようなコンセ

プトがあったかどうかは疑わしい。中井はもっと感覚的にあの当時の

カオスを整理せぬまま書き綴っていたように思えるのだ。それは後で

書くが、新青年の完本を手にしてしまった中井が作品論や作家論より

も新青年全体で何かを語ろうとする所から感じられる。新青年の呪縛

とも言えるのではないか。また中井本人は”文体”というものに強く

こだわった作家でもあった。文体にこだわるということは作品の手法

構成にまで影響を及し、短編などは非常にテクニカルに、コンセプチ

ュアルに纏められている。あくまで虚構に生きた作家であった。   

エッセイで繰り返し(本当にくどいくらい)新青年の思い出は語られ

る。補足をすれば新青年とは推理小説の前身、探偵小説の土壌。江戸

川乱歩がデビューした雑誌。その他優れた探偵作家を数多く世に送り

出した奇跡的な雑誌なのである。戦前から戦後まで約400冊余り出版

され、現在では古書店で1冊平均1万円〜2万円の値段が付けられてい

る。一般庶民に関らずパーフェクトは夢の様な話なのだ。なぜなら戦

中の新青年は軍部の検閲があり一部が破りとられたりしたため完全な

形でのパーフェクトは絶望視されていたのだ。しかし中井英夫は古書

店で偶然にも検閲前の新青年を手に入れてしまう。これはとんでもな

い事だった。事実、復刻の際出版社が中井英夫に資料提供を頼んだほ

どだ。エッセイでも事有るごとに言及している。一度や二度の話しで

はない。新青年完本の話題は異常に多い。完全に子供の目だ。    

この”完本を持ってしまった”という事実も中井英夫という作家を語

る上で今後の研究では絶対に避けては通れない事実であろう。   

また完本を手にしてしまった為の創作の停滞(探偵小説ワールドを自

分だけが手中に収めてしまった。)という錯覚も未完成作品の多さへ

の検証材料になるのではないか。