
「小さな侵入者」
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いえ、名のるほどのもんじゃぁござんせん。どこで生まれたのか、親はどこにいるのか、何もわからないまま今日も気が向いた方に飛んでいくだけのいたって気楽な毎日ですよ。そうそう、貴方達は我々のことを「蝿」と呼ぶのだそうですね。 そりゃあ朝からいいお天気でした。私もそれこそ羽根を伸ばして自由に飛んでいたんです。すると目の前に鉄筋5階建ての、あれはあなた達の世界では「県住」と言うのだそうですね。その3階からですね、のどかな休日であるにもかかわらずですよ、なんといいましょうか「奇妙なオーラ」とでも言うのでしょうか、なにか不穏な空気が漂ってくるのですよ。 まぁ私は「蝿」ですからね、不穏とか不潔とか不吉とかそういうのを専門にやってますんでね、数ある部屋の中からその3階を選んだ訳ですよ。丁度いい具合に台所の窓が開いてましたもんでね、年甲斐もなく若かった頃を思いだしてプーンと勢い良く飛び込んだんですよ。 するとそこには創造を絶する生活が繰り広げられていたんです。 嫁「テメェ、歯ァ磨く時は水を出しっぱなしにするなっちゅうてナンベン言わせたら気が済むんじゃあコラァ。」 私は勢い良く部屋に飛び込んだんですが、あまりの大声と衝撃波によって外に弾き飛ばされるところでしたよ。蝿の長老から昔教わったことがあるのですが、中国という国では「気功」というものがあるそうじゃないですか、なんでもそれは手も使わずに相手を吹っ飛ばすことのできる術だそうです。 私は今、その「気功」というものを見てしまったのかもしれません。 嫁さんは台所でお米をといでいました、ダンナさんは寝起き顔で歯を磨いていた所、イキナリの嫁さんの怒号によって可哀相に恐怖で身体が硬直してしまってます。口は歯磨き粉で溢れ、泡を噴いているようにも見えます。マンガみたいです。私は再び「気功」によって吹っ飛ばされないように、適当な柱を見つけてとりあえずしがみつきました。 呉「人が寝起きでボケーッとしてる時に大声出しやがって。そんなにセコセコして楽しいか。ダンナを叱りつけて楽しいか。」 嫁「こっち来ていっぺん目ェ開いてよう見てみぃ。」 私は嫁さんのあまりの衝撃波によって、羽根が千切れてしまうのではないかとさえ思いましたよ。ダンナさんは水道の水を止めて恐る恐る台所に歩いて行きます。今までいろんな家庭にお邪魔してきましたが、こんなに貧相で弱々しく、絶えず瞳の奥に「哀しみ」の見えるダンナさんは初めてです。「うだつの上がらぬサラリーマン」といった感じです。 そういいながら私も怖かった訳なんですがね、迫力のある嫁さんが一体何を見せようというのか非常に気になりましてね、勇気を振絞って台所の天井まで移動したんです。 嫁「今、私がなにしてるかわかるか?」 呉「何がって、お米をといでるだけやろうが。」 嫁「オマエの目は節穴か? 私はなぁ、米のとぎ汁を流さんと貯めよるんじゃ。それで食器のつけ置き洗いをするんじゃ。日頃から無駄を省いとるんじゃ。そこに置いてあるバケツは何かしってるか? それは風呂の残り湯を洗濯機に移すためにあるんじゃ。マイホームの為に無駄を省いとるんじゃ。」 ダンナさんは呆然として聞いていましたよ。話ながら嫁さんの声のボリュームが段々と大きくなってきましたんでね。私はなんだかイヤな予感がしたんですよ。そうして私が全部の足に力を入れて踏ん張ったその時です。 嫁「無駄を省いて小銭を貯めて私が毎日頑張ってるっちゅうのに、アンタが真夜中までマックつけて電気メーターをグルグル回しとったら意味が無いんじゃ!」 私の予感は見事に的中しました。私の下でのけ反っているダンナさんのように気を抜いて話を聞いていたら、私は間違いなく嫁さんの発する気功によって飛ばされていましたよ。それにしても今日初めてお邪魔した私でさえ嫁さんの行動パターンを見切ったのです。下で目を点にしたまま固まっているダンナさんには「学習能力」というものがないんでしょうかねぇ。 嫁「我が家にとってマックは百害あって一利無しや。マイホームを遠ざける敵や。アンタ私に約束したよなぁ。マックは夜の12時になったら消すって。それを最近私がうるさく言わんようになったら調子こいて遅くまでしよってからに。一体どういうつもりや。」 呉「どういうつもりやってオマエ。家族のためにワシは一生懸命働いとるんや。チョットくらい遊びに夢中になったって大目に見てくれてもええやないか。」 ダンナさんの話を笑うように聞き流した後、嫁さんは黙って部屋の隅を指さしたんですよ。私も気になって振り向いてみたら、そこには何の変哲もない石油ストーブがポツンとあったんです。 嫁「約束は守るためにあるんと違うんか。もうすぐ冬も終わりや。無駄なく灯油の残りでマックを焼いとったろか。」 私の精神も限界でした。一刻も早くこんな恐ろしい家から逃げ出したかったのですが、嫁さんの恐ろしいセリフに身体が凍りついて羽ばたくことができません。私はそのまま恐怖で動けず天井のシミになるんじゃないかとさえ思いましたよ。 下を見るとダンナさんは小声で念仏でも唱えているのでしょうか、口は動かしているのですが言葉が出ていません。言い返しているつもりなのでしょうが、何を言ってるのかサッパリわかりません。 生まれてこの方数えきれないくらいの家庭にお邪魔してきたのですが、ダンナさんというものは尊厳があり、ピシッと言うべきことは言い、常に家族の先頭に立ち引っ張っていく存在だと思っていたのですが、どうやらそれは私の思い込みだったようです。 そうこうしてるうちに夜がやってきました。下では子供達が異様にはしゃいでいます。いや、異常といってもいいでしょう。「ここは遊園地か?」と思えるくらいのお祭り騒ぎです。なんでも今日の晩ご飯は「スキヤキ」なのだそうです。そして話されている文脈から察するとどうも「スキヤキ」は無茶苦茶久しぶりのメニューらしいのです。 それでもここまで騒ぐでしょうか? 子供達は皆「瞳孔が開きっぱなし」の状態です。ダンナさんも座っていますが妙にソワソワしてまして、鼻の穴が広がっていました。いつもこの家庭は一体何を食べさせられているのでしょうか。 テーブルの真ん中に湯気を立てたスキヤキが運ばれてきました。子供達は箸を振り回して迎え入れます。大喜びの家族の中で一人ダンナさんだけが不満そうな表情を浮かべていました。 呉「あのなぁ、今日はせっかくのスキヤキやないか。無茶苦茶久しぶりやないか。せっかくやったら美味しく食べようやないか。何? この色、薄いやないか。またオマエの薄口の味付けかいな。」 嫁「なら食べんでええがな。」 二人の会話はそこで終わってしまったのです!! 嫁さんはダンナさんに最後まで小皿を渡しませんでした。ダンナさんは半泣きになっていました。俺が働いてとか、汗水垂らしてとか力説しているのですが家族の誰も耳を貸そうとしません。皆食べるのに必死です。 こんな悲惨な家庭はもうたくさんです。私は換気扇の隙間から外に出ようと壁から飛び立ちました。 嫁「今日は朝っからプンプンうっとおしく私の目の前を飛び回りやがって。」 嫁さんは素早く台所に向かうと殺虫剤を手に持ち、私に目がけて恐ろしい毒ガスを遠慮なく吹きつけてきました。これでもかっという嫁さんの甲高い声をすり抜けながら私も必死になって逃げ回りました。それでも嫁さんの性格は蛇のようにしつこかったのです。まるでダンナさんに対するストレスを発散しているようです。 毒ガスがついに命中しました。頭の芯がクラッときました。冷たい床に背中から叩き付けられました。床に沈んでいくようです。自分の意志とは関係なく足が痙攣しています。目もかすんできました。どうやら私の人生もこれで終わりのようです。 かすむ目の先には貧相なダンナさんがいました。 ダンナさん。お先に逝きます…。 |
これを読んでいる独身者諸君。ここはぜひ心して耳を傾けてほしい。
「入ってみなければその家庭の辛さはわからない」
と、一言いっておきたい。
完