「音のない部屋」



 今日も残業でスッカリ遅くなってしまった。クタクタになった身体を引き摺りながらもなんとか県住の三階を目指す。私がこれだけ働いているのに嫁は不服らしい。

嫁「死んでも定時で帰ろうとは思うな。何か仕事を見つけて残業せい。何もなければ掃除でもして極限までタイムカードを押すな。」

などと真顔でぬかしよるのである。まったく働く者の身になってほしいものだ。こんな時間から食事をして風呂に入れば今日もマックに触れる時間はなさそうだ。

働いて寝るだけの奴隷生活…。もう耐えられないっ。今日はマックを触ろう。一つ言えば十帰ってくる嫁に今日こそは抗議してやろう。不信任案を提出してやろう。県住の扉の前に立ち拳を握りしめ気合を入れる。私は意を決して中へと入った。

呉「ただいまぁ〜っ」

私の言葉は虚ろに響くだけであった。人の気配はするのだが返事が帰ってこない。部屋はヒッソリと静まり返っている。テレビもついてはいない。奥を見れば背中を向けて洗濯物を静かに畳む嫁の姿が目に入った。

呉「ただいまぁ〜っ。オマエ人の話し聞いてるんか?」

私の問い掛けにも嫁はまったくの「無反応」である。我が家で立ち尽くしてしまう私。嫁は背中を向けたまま洗濯物を畳み続けている。

呉「な、なんでオマエ黙ってるねん。なんで一生懸命働いて帰ったのに無視されなアカンねん。」

次第に声のトーンが上がっていくのを意識しつつも、謂れのない無視は堪え難いものがあった。

呉「も、もしかしてアレか? 昨日オマエが風呂に入ってる時に財布からコッソリ抜いた1000円のことで怒ってるんか?」

その瞬間、快調に洗濯物を畳み続けていた嫁の手がピタリと止まってしまった。よく見れば嫁の肩は小刻みに震えてた。どうやら知らなかったようである、愚かにも自分で自爆ボタンのスイッチを押してしまったようだ。

呉「わかった。マックか、ワシがマックに向いすぎるのが原因なんか。でも最近残業続きで全然触ってないやないか。それくらいで働いて帰ってきたダンナ様を無視で出迎えるんか?」

今、私は気付いてしまった。嫁の延々と続く愚痴もストレス地獄なのだが、こうやって完全に無視されてみると私は構ってもらわないとダメなタイプらしい。自宅でパニック状態である。

呉「なにが原因なんや。も、もしかして先週コッソリ買って押し入れに隠してある巨乳アイドル写真集を掃除中に見つけてしもうたんか? 捨てるがな。キッチリ粗大ごみの日に捨てるがな。」

洗濯物の上に静かに置かれていた嫁の手が、私の言葉を聞いた瞬間握りこぶしへと変わった。この隠し事も嫁は気付いてなかったようだ。お、オイ、そんなに握ったら私のワイシャツが再起不能になってしまうではないか。

呉「何か喋ってくれや。無視するなや。

ほとんど絶叫のように部屋の真ん中で叫んでしまった。顔は完全に半泣きである。首も45度に傾いてまるでイジメられた小学生のようである。まことに情けないかぎりではあるが、仕事で疲れ果てて帰ってきての精神攻撃は私にかなりのダメージを負わせていた。私が途方に暮れていた時、我が家の静寂を電話のベルが遮った。嫁は電話に出る気はなさそうだ。仕方なく私が電話口に向う。

呉「はい。呉ですけども。」

親父「おぉ〜エイジか。この時間くらいには仕事から帰ってきてるって嫁ちゃんに聞いてたからな。」

呉「オ、親父か?」

親父「さっき嫁ちゃんから電話で相談があってな。説教してくれって頼まれたんや。それはそうとオマエこの前の日曜日、嫁ちゃんが干してた布団をベランダから入れてる時、平然とマックをしとったらしいな。たまの休みに趣味をしたいのはわかるけどな。そういう時に気配りしてポイントを上げとけや。嫁ちゃんムカついてたらしいわ。ダンナの自覚がないって。」

私はB型で「のめり込む」タイプなのだ。集中していると人から呼ばれても気が付かない。周りが何も見えていないのだ。学生の頃、ドラクエに熱中するあまり、肘で缶コーラを倒していたのにも気付かずプレイし続け、飲もうと思って手を伸ばしたら中身全部を絨毯にブチまけていたことに初めて気付いたあの頃が懐かしい。

親父「それからエイジ、オマエはお父さんの自覚をもっと持たなアカンぞ。長女ちゃんも今は可愛い盛りやけどな、気ぃ抜いとったらすぐ女学生になって乳バンドするようになるんやぞ。」

呉「じょがくせいにちちバンドって親父、それいつの単語や!

昭和10年代生まれのパワーには無条件降伏である。俺は「頼むからその単語を若い人の前で使わないでくれ」と、心の中でそっと祈った。

親父「それから今からの会話はオマエは全部をウンと返事せいよ。嫁ちゃんには説教電話になってるからな。この前ワシパチンコで久しぶりに大勝ちしたんや。で、お母さんにその事を話したら今月厳しいから家計に入れてって全部根こそぎ持っていかれてしもうたんや。エイジこれどない思う? あんまりやと思わへんか? それやったら父さん正直に言わん方がよかったわ。」

呉「ウン。」

親父「それから前にお母さんとちょっとした言い争いをしてしもうたんや。その時お母さんなんて言ったと思う? 若いころアンタが毎月10万円をマージャンに使わへんかったら、もうちょっとデカイ家に住めてた。やで。30年以上も前の話や。全然ケンカと関係無い話やと思わへんか?」

呉「ウン。ウン。」

親父「まぁ、オマエもいろいろとあるやろうが試合に負けて勝負に勝て。自分の手の平の上で転がしとるんやと思い込め。また遊びに来いな。ほな切るで。」

一体なんの電話やねんというツッコミを入れる隙も与えず電話は一方的に切られてしまった。

嫁「お義父さんからの言葉ちゃんと聞いたやろうな。ワタシがアンタを無視する気持ちもわかるやろう。か弱い女が布団を取り込んでるんや。男やったら手伝いぃな。」

どこが「か弱き女」なのか。嫁ならば布団三人分でも楽勝の腕力のはずである。

嫁「それからさっきワタシが知らんことベラベラと暴露してくれたけど、一体どういうこっちゃねん。まぁ立ってないでそこ座りぃや。」

蒸し暑い部屋の中では蚊が元気よく飛び回っていた。今日も長い夜になりそうである。



これを読んでいる独身者諸君。ここはぜひ心して耳を傾けてほしい。

負けて勝つの精神で乗り切ってほしい

と、一言いっておきたい。