
「幸せのカケラ」
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風呂場の中で私は思わず溜息をついてしまった。長引く奴隷生活、自由にマックを触れぬストレス。丸一日働いても、一生懸命働いてきても、唯一の楽しみであるのにどうせ今夜もマックに触ることはできぬのだ。 「電気代のムダ遣いなんじゃ、マイホーム資金が遠のくんじゃ」 嫁の叫んできた呪いの言葉が頭の中で鳴り響く。「今日も働いて寝るだけ、か。」私は諦めてシャンプーに手を伸ばした。 右の手の平でポンプを押すと通常ドロッとしたものが私の受けている左手にくるのだが今のはどうだ。ジャンプーは私の左の手の平をピュッピュッと元気よく飛び越えていくではないか。 「少なくなったシャンプーに水を足して水増しかい! これもマイホーム計画の一環かい!」 私のツッコミは風呂場で何重にも虚しくエコーした。水で薄められたシャンプーは当然泡立つことはなく、リンスのような仕上がりになるだけであった。 ※ 風呂から上がると電卓を片手に家計簿を睨みつけている嫁の後ろ姿が目に入った。何か話しかけて、またマック道楽にケチをつける展開になることを恐れた私はタオルで頭をふきながら必死に自然を装った。 「あぁ〜サッパリした。エエお湯やったわ。」 嫁は私の声が聞こえているのかいないのか、家計簿をつけるのに必死で全くの無反応である。「食べた後にいつまで新聞を読んどるんじゃ。風呂入らないつまでたっても洗濯機回せへんやろが」と言われたからこそ早く風呂にも入ったし、入れば中では水増しシャンプー攻撃である。そんな従順な夫の行動に対して嫁は完全に「放置プレイ」状態であった。 私が嫁の後ろでガサゴソと着替えていると、ようやく嫁は私の存在に気が付いて振り向いた。どうやら真剣に気が付いていなかったようである。 「あっ、上がってたんかいな。今日も一日暑かったな。お疲れさん。たまには一緒にビールでも飲むか?」 読者の皆さんにとってはこのようなセリフ、ごく当たり前のことなのかもしれない。しかし私にとっては何かこう、心のツボを突き抜いたと言おうか、不意に優しさが骨身に染みてしまったというか、日頃の会話が壮絶すぎて今のような普通の会話がいたわりに溢れまくった言葉に聞こえてしまったのだ。 「おぉ、ええなぁ、じゃあ一緒にビールでも飲むか。ついでやろうか?」 「な、なんや急に。気持ち悪いなぁ。」 と言いながらも嫁は酒に弱い私が珍しく晩酌をするので機嫌が良く嬉しそうである。これは一体なんなのだ。普通とはこれほどまでに幸せなことであったのか。目の前にグラスが置かれ、嫁はビールの栓を抜いた。 「まぁオマエから飲め。ついでやるから。」 「何言うてるのよ。アンタから飲みなよ。疲れて帰ってきてるのに。」 「まぁまぁ、エエがな。オマエも育児とかで大変やろう。まぁ一杯。」 嫁は嬉しそうにグラスを差し出した。そして乾杯。半分まで一気に飲み干して嫁を見る。いままでは憎らしくて仕方がなかった嫁の二重あごも何故だが今日は可愛く見える。どうしてしまったというのだ。今までの闘争の歴史は「気持ち一つ」でどうにでも回避できていたのではないか。今の私たちは「雪だるま式」にいたわりの言葉を掛け合っていた。 「どないしたんや。ビール飲みながらクビ回して。」 「いやぁ、今朝寝違ってなぁ、仕事中も一日クビが痛かったわ。」 その言葉を聞くと嫁は私の後ろに回って肩を揉み始めた。 「な、なんや肩なんか揉んで。」 「まぁ遠慮せんとじっとしときいな。」 「き、気持ち悪いなぁホンマ、アホハッ。」 「アンタの笑い方もホンマ気持ち悪いなぁ。アヘヘッ。」 「アホハッ。」 「アヘヘッ。」 恐らくこの光景を第三者が見たら、非常に気持ちが悪いモノに映ってしまうことだろう。しかしこの時の私たちは穏やかさに包まれ、久しぶりの平和を喜びあっていたのだ。何故今までこのようにできなかったのだろう。夫婦円満の秘訣など互いにカケラほどの優しさがあれば築くことができたのだ。実は簡単なことだったのだ。結婚七年目にして私はようやく悟れることができた。 「ようし。じゃあ今度はオマエの番だ。炊事洗濯で身体もクタクタやろう。俺が背中を押してやろう。そこへ横になってみい。」 「今日のアンタは一体どないしたんや。明日雨が降るんと違うか?」 「アホハッ。」 「アヘヘッ。」 私の労働力の全てを脂肪に変えてしまった嫁の大きな背中も、今宵は何故か愛おしい。幸せとは波風のない、ごく普通で平穏な状態のことをいうのか。これほどまでに豊かな気持ちになれるのか。新婚当時もこのような感じだったかもしれない。最近の私は当たり前な生活を完全に忘れてしまっていた。 「いやぁ、気持ちよかったわぁ。アンタのマッサージ、なかなか良かったで。さぁ、夜も遅いからそろそろ寝よか。」 「そうやな。じゃあ先に横にならせてもらうわな。」 「うん。じゃあ私は火の元とカギを見てから寝るわ。オヤスミ。」 コップ一杯のビールで酔った私はそのまま布団に倒れ込んでしまった。何も恐れることのない家庭とはこれほどまでにも素晴らしいことなのか。私はささやかな幸せを噛みしめながら寝返りを打った。 その時風呂場で大きな音がした。洗面器を床に叩き付けたような音だ。 「ど、どないしたんや。何か物でも落ちてきたんか? ケガはないか?」 私が慌てて駆けつけても嫁は風呂場の中で立ち尽くしたまま無反応である。次第に嫁の身体からオーラーが立ちのぼる。一体なにが起こっているのだ。 「アンタが今日の風呂の最終ランナーやなぁ。」 「そ、そうやけどどないしたんや。」 「ワレ種火つけっぱなしで何さらしとるんじゃ!」(怒号) 「あっ、疲れ果てて忘れてたんや。悪い悪い。」 「何が悪い悪いじゃ。ちょっと甘い顔見せたら調子ぶっこいてからに。仲良うしとった間中、ガスメーターはクルクル回っとんたんか。無駄金が落ちていきよったんか。ワレと連れ添うとったら金なんぼあっても足りんのじゃ。」 先程までの互いをいたわる気持ちは一体どこへワープしてしまったのか。しかし嫁のこの怒り具合はどうだろう。日頃怒らない私の怒りに換算すれば「肉親を殺された」級の怒り具合である。そしてこの吹き飛ばされそうな闘気はどうだ。 まるで私が生きていること自体が無駄だと言わんばかりだ。 どだいきゃつとは和平交渉などハナっから無理であったのだ。話合いの通じる相手ではなかったのだ。やはり私は勘違いしていたのだ。 カケラのような束の間の平和はここに終わった。 |
これを読んでいる独身者諸君。ここはぜひ心して耳を傾けてほしい。
「私の尊厳も最近はカケラ程です」
と、一言いっておきたい。
完